怖い顔をして剣と索(縄)を持っているお不動さま。
手に持った剣で、さまざまな欲望に惑わされる人々の迷いを断ち切り、欲の海に溺れる人々を縄で引き上げてくれる庶民の強い味方です。 ひどく怒った忿怒のお顔を示されているのは、全ての人を力ずくでも救うためだともいわれています。
当山の御本尊・不動明王は、密教の最高仏と位置づけられる大日如来の成り代わった御姿です。
右手に握っておられる智剣は「悟りの智慧」を象徴し、心の迷いを断ち切ってくださいます。
そして左手に持っておられる羂索(けんさく)の縄で煩悩を縛って封じ、正しい教えの道へと導いてくださいます。
お不動さまがお立ちになる磐石は、全ての人を救うため、あらゆる苦難に耐える決意を表しています。
※写真は御前立ちです
秘仏のため普段は厨子の中に安置していますが、毎月28日の縁日には御開扉いたします。
ご開扉は朝5時から日暮れまでで、この日は多くの参拝者が訪れます。
別名を「水引不動」と呼ばれ、かつて大かんばつのため近隣の田が干上がり、里人が難渋していた際に里人がお不動さまに祈ると、不思議なことに田の中に水が引き上げられており、お不動さまの足には泥水の跡が付いていたという伝説が今も残っています。
當寺の御本尊・不動明王は、「水引不動」とも呼ばれています。
その昔、この地域が大かんばつに遭遇したときのことです。田畑はひび割れ、稲苗をはじめ、作物という作物はことごとく枯れ果ててしまいました。困った住民たちが揃って不動明王に祈願し、雨乞いしたところ、一夜にして念願の雨が降り、田畑一面が満水したといいます。
住民たちは一同感激感涙し、不動明王に御礼参りに行くと、御本尊の御手足に泥土が付いて濡れていたと伝えられています。
それからというもの、当院のお不動さまは別名を「水引不動」と称されるようになりました。その時、住民がその泥土を洗い流すのに近辺にある池を使ったため、今もその池を「御手洗いの池」と呼んでいます。
當寺のご本尊は、約1,200年前の天台宗開祖・伝教大使最澄の御作と伝えられる不動明王です。
千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動尊)、東京都目黒区の瀧泉寺(目黒不動尊)と共に、日本三大不動と並び称されています。
ご本尊の御胎内には、伝教大使御真筆、紺紙金泥の法華経寿量品が奉蔵されています。
當寺は比叡山延暦寺の末寺として、延暦年中に宗祖傳教大師が開基したとされ、西国一の談義所といわれていました。
後白河天皇の御代であった保元平治の頃、鎮西八郎為朝(源為朝)が木原山在城の時、鬼門除の祈願所として信仰されました。
本尊不動尊は、傳教大師一刀三禮による作とされ、直筆の紺紙金泥の法華経寿量品が御胎内に奉蔵されていると伝わっています。
文治年間には源頼朝が堂宇を再興し、寺領水田を寄付して祈願所としたといわれていますが、その後、天正年間に小西行長による寺領没収等の憂き目にあい、それからのち、堂宇は荒廃しました。
加藤清正が肥後城主となった際に再興されましたが、歳月と共に堂宇は老朽荒廃していきました。
元禄十五年に圓入という僧が勤行に精進し堂宇を修造しました。
明治維新の変遷に伴い廃寺とされましたが、総代・地元住民が名刹旧跡の荒廃を嘆き、復興の熱願のもと明治二十五年に再興の許可を得ました。
しかしその後計画がなかなか進まず、明治四十年吉里弘禅師が住職となり、大正十一年より地元有志により木原不動尊霊跡顕彰会が発会され本格的な堂宇の再建がはじまり、大正十五年に本堂が完工し、山門・観音堂・鐘楼堂・奥の院と歴代住職へ引き継がれていきました。
この為、吉里弘禅師を中興第一世とし、その後現在の中興第五世角本尚雄住職へと受け継がれています。
観音堂昭和4年
山門昭和初期
鐘楼堂昭和初期
本堂昭和初期